薄い金髪双子姉妹みたいなイメージ。

http://mgribbon.tumblr.com/post/31126650372

「ふつうは」みたいな表現を繰り返し用いてるのは、「自明なので説明は省く」をマイルドにした表現です。自明なので、はまぁ「自明だと思うので」であって、相手にとって自明でなかった時にバカにしたように聞こえるのであまり好きじゃないんです。案の定、といった感じですが。

自明というのは“証明などをしなくても、明らかであること”なので、思うとか思わないとか、そういうのは関係ないです。


あと、相手によって明らかであるかないかが変化するようなものを、自明とは呼称しませんね。はい。一文の中でさらっと矛盾をかましてるってのは、ちょっと面白いですが。*1







別に呼び方はどうでもいいんですけど現実の話をしているのにrag_enさんの言うところの「理屈」の話をしていることがすでに極端な態度だと思いますし。

はぁ。MagnesiumRibbonさんが言うところでもある“議論”をしているのに、その手段に「理屈」を採用しないってのはどういうことなんですか?
お友達同士のまったりトークでもしてるつもりだったんですか。さっぱり。








「ポジションがどうであるかは事柄の是非を決定付けない」というのは単なる事実であって、賛同を得られる得られないの問題ではありません。今、ここに書かれている文章が仮に、BOTによるものであろうと、猫パンチによるものであろうと、その文章の是非や正否については全く関係がありません。

端的に言ってそんな「事実」は無いですけど。

えっと、それは冗談か何かで言ってるんですか。

これが、発言者や聞き手、その他のポジションがどうであるか(有利か不利かどうか)によって変化することはありません。そんなオカルトありえません。








あと「是非」と「正否」は全然違う。

お、おう。







是非。

正しいことと正しくないこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/125035/m0u/%E6%98%AF%E9%9D%9E/

正否。

正しいことと正しくないこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/122554/m0u/%E6%AD%A3%E5%90%A6/

全然…なんでしたっけ?
まぁ、ニュアンスの違いくらいはあるかもですねー。








揚げ足取りのようで大変恐縮ですがひとつお伺いしたいんですが、rag_enさんは「他人にゲス呼ばわり」されたことにご不満をお持ちのようでしたが、そこに「他人に」という留保が付いている事自体、ポジションがどうであるかによって表現の是非を区別しているようにみえるのですけど?

まず、“不満”ってのがどこに書いてあったのか、全く不明ですね。


次に、みえるみえないってのは単なる主観なので、こちらとしてはどうでもいい話ですが。というか、“「他人にゲス呼ばわり」されたこと”の話は一切してないですし、「ゲス」という表現そのものの「是非」についても何も述べてませんね。


とりあえず、揚がってない足を取りにいっても一蹴されるだけなので、あまりおすすめはできませんよ、とだけは。








難しい言葉を使って墓穴掘りたくないので避けたいんですが、要するにシニフィアンの話をしてるのかシニフィエの話をしてるのか。日本語の「表現」という単語では、どちらとも取れる。

はぁはぁ。なんだか小難しいお言葉をご存知でらっしゃる。


というわけで、困った時のWikipediaさん。





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8

シニフィアンはフランス語の動詞 signifier(意味する)の現在分詞で「意味しているもの」「表しているもの」を指し、シニフィエは同じ動詞の過去分詞で「意味されているもの」「表されているもの」を指す。

シニフィアンとは、語のもつ感覚的側面のことで、例えば海という言葉の「海」という文字や「うみ」という音声のことを言う。他方シニフィエとは、このシニフィアンによって意味されたり表される海のイメージや海という概念ないし意味内容のことである。

なるほど。ただし今回の場合についていえば、そこを切り離す必要が全く無いですね。言語学の話なんてしてませんし。いや、アルファベット圏の人にとって「海って文字」は「海」を意味しないってのは、そりゃその通りでしょうけど、今そんな話してます?



ではシニフィエとしての「表現」の是非、と考えるとする。


だとすると、意味を考えなくちゃいけないわけですが、当然意味というのは「文脈」によって変わります。


文脈とは前後の話のつながりや状況、5W1Hなど「ありとあらゆるもの」が含まれます。


この「文脈」に「表現の主体・客体のポジション」が含まれないとする理由がありません。

えっと。ここで言われてる「意味」ってのは、共有される概念としてのそれ・辞書的なそれ*3としての「意味」なのか、それを共有したうえで個々人が受けるイメージとしての「意味」なのか、どちらなんですか。


「文脈」というのも、「表現」そのものの「文脈」のことなのか、それとも「表現」を取り扱う人と人のコミュニケーションや文化圏等における「文脈」のことなのか、どちらなんですか。



そこを混同したまま話をすすめるつもりなのですか?
むしろ、「シニフィアンシニフィエ」などより切り離すべきはそのライン、つまり『「表現」そのもの』か『「表現」の外部』か、なのではないですか。



Wikipediaさんに記載されている「海」の例で言うならば、単なる概念としての辞書的な意味での「海」なのか、そこから個々人が受ける「楽しい」「怖い」等のイメージとしての「海」なのか。言語学的にそれを分化する意味があるのかどうかは存じ上げませんけれども、最低でも今回の述べてきている話においては、そこを混同すべきではありません。



故に、シニフィエとしての「表現」には、予めポジションが含まれます。従って、「ポジションに左右されない表現の是非」は空文です。

話がぶっとんだー。


何が“従って”なのか。(MagnesiumRibbonさんの記事中の)上記まででなされたのは、ポジションによって「意味」が変わる、というお話だけです。「是非」の決定要因についてなど、一切述べられていません。



まぁ、ポジションによる「表現」の「意味」の変化、という事は恐らくそれは『「表現」の外部』による個々が受けるイメージとしての「意味」の変化、という事なのでしょう。



そもそも、ポジションによって個々が受けるイメージとしての「意味」が変わる事について、こちらが否定した記憶はありません。


しかし、ポジション…つまり『「表現」の外部』よって「表現」の(個々が受けるイメージとしての)「意味」が変わることは、『「表現」そのもの』の「意味」が変わるということではありません。そしてまた、『「表現」の外部』よって「表現」の(個々が受けるイメージとしての)「意味」が変わることは、その「表現」の「是非」を決定付ける要因には全くなりません。


ですから結局、やはり「ポジションがどうであるかは「表現」の是非を決定付けない」というのは揺るがない“事実”ですね、と申し上げざるを得ません。空文?なんのことですか?









表現規制とはモルヒネのようなものだ。

えーっと、そういう格言みたいのでもあるんですか。ちょっとよくわかんないですね。

rag_enさんははてブコメントから言葉狩りの臭いを嗅ぎ取ってるようだと「エスパー」したので言葉狩りという言葉をぶっ込んでしまった感はあるのですが。


実際どの辺りからその臭いを嗅ぎ取ったのか全然私には分かりませんでした。見えない敵と戦っているように見えます。

シャドーのrag_enに向かって“見えない敵と戦っているように見えます”ってのは、やはりギャグか何かなんですか。ちょっとよくわかんないですね。









暴力とは、受けた人が傷ついたと感じたものが暴力だ。

そんな、「魔法の呪文」の「魔法の呪文」っぷりを堂々と述べられても。んなアホな、としか。



今、僕が「MagnesiumRibbonさんからのレスで傷つきましたー、暴力ですー。」って言ったら、その時点でMagnesiumRibbonさんが書いたこれまでのレス・レス記事は全て「暴力」になるんですか。便利だわー(棒。









あ、最後にひとこと。

『「クズ」って言葉を他人に向けるのはヒドイけど、「クズって言われてもしょーがないよねー」って言葉を他人に向けるのがヒドくない』みたいな感覚は、ちょっと僕には分からないので。

別に私、「クズ」って言葉を他人に向けるのはヒドイなんて言ってませんよ?

別に僕、MagnesiumRibbonさんが「クズ」って言葉を他人に向けるのはヒドイと言った、なんて言ってませんよ?…とお答えしておけば納得いただけますか?はい。

*1:そもそも、ネット上のコミュニケーションは「ふつう」とは違う異質のコミュニケーションだ!…とか、なんだって言えるわけだし。

*2:まぁ細かい事を言えば、魂入れ替わり回とかあるとややこしいんだけど。

*3:いやまぁ、個人名とかは辞書には載ってないだろうけど。