いついつでやる。

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いつ、「ある表現」が「暴力」へとクラスチェンジしたのか、について。


舞台上の演者は自らの発言・パフォーマンスを通常あり得ないほど多数の人に「聞かせる」ことができるという特権的な位置に立っている一方で、通常あり得ないほど多数の人からリアクションを受ける立場にあります。


舞台の上に居る以上、演者は個々のリアクションに個別に切り返すことはしない、できないことになっているので、ここには構造的な暴力が発生する余地があるわけです。

まだこの時点では「余地」のようです。“演者は個々のリアクションに個別に切り返すことはしない、できない”という条件では、まだクラスチェンジはしないということなのでしょう。



舞台上の演者に向かって、みんなで一斉に何度も同じ言葉を浴びせかけるというのはそれだけで暴力たりえます。

それは言葉の意味とはたぶんあんまり関係無くて、もちろんネガティブな言葉の方が暴力になりやすいですが、悪意なき発言でも暴力たりえるでしょう。

この時点でも、未だ「たりえる」レベルであり、それは可能性にとどまるようで、クラスチェンジ条件がはっきりとしません。言葉の意味もあまり関係が無いそうです。では、何が「ある表現」を「暴力」へのクラスチェンジさせたのでしょう。



多対一で、文句が言えない立場であるからこそ、誰から見てもはっきりと罵倒語でない場合には抗議できないからこそ、この手の暴力は構造的暴力だと言っているのです。

はい。なんかいきなり、というかいつの間にかクラスチェンジしてました。びっくりです。



“多対一で、文句が言えない立場であるからこそ、誰から見てもはっきりと罵倒語でない場合には抗議できないからこそ”の部分は「構造的」である事の説明でしょう。


つまり、少し言葉を入れ替えると、『この手の暴力は、多対一で、文句が言えない立場であるからこそ、誰から見てもはっきりと罵倒語でない場合には抗議できないからこそ、構造的暴力だと言っているのです。』となります。ふむ、なるほど。







…で、いつの間に「ある表現」は「この手の暴力」へとクラスチェンジしたの??



「構造」の存在は、「この手の暴力」が「構造的暴力」である事の説明にしかなってない。また、“言葉の意味”もあんまり関係無いと明言されている。にも関わらず、いつの間にか「ある表現」は「この手の暴力」へとクラスチェンジした。「余地がある」だの「たりえる」だの、少しずつ、そしてなんとなく雰囲気で、「ある表現」を「この手の暴力」へとクラスチェンジさせた。そして、そのうえで「ある表現」=「この手の暴力」=「構造的暴力」だ、とした。それが、ここで用いられた理屈の流れの酷さです。




そして、たぶん多くの人が賛同するように、社会的地位を用いた一方的な構造的暴力はいかなるタイプのモノも悪である、とするのが昨今の日本社会におけるメジャーな倫理観であるといえるでしょう。

そして、チェンジしたクラスを保持したまま、「ある表現」はさらに“多くの人”や“メジャー”の力によって「悪」認定を受けます。おっかない話です。「魔法の呪文」の恐ろしさの片鱗を見た気がします。





客と店員という立場をちゃぶ台返しして、「お前らいい加減にしろや」って言うことは、なるほど一部のブコメが言うように「やっちゃいかん」部類に属するとも言えます。


他方、演者を信頼している人間からこの現象を見た場合には、ある意味で「禁じ手」であるちゃぶ台返しをしなければならない(=構造を破壊しなければならない)ほど当人にとって構造的暴力は深刻である、ということを意味するのであって、それは「やめてください」以上のメタメッセージを内包しているのです。

これは完全に因果がおかしい。


しかし、これまでに述べられたことを踏まえてしまうと、既に「ある表現」は「暴力」であり、「構造的暴力」であり、「悪」でもあります。その前提でこの文章を読んでしまいます。
そのため、『「ある表現」は「構造的暴力」→だから→構造を破壊した』と、『構造を破壊した→だから→「ある表現」は「構造的暴力」』を混同してしまいます。危ういです。










さてここで、例えばの話。




仮に、ある世界が「明日のナージャ」という「表現」が支配的な、そういう「構造」の世界だったとして。


老若男女、猫も杓子も「明日のナージャ」。そんな世界において、「明日のナージャ」アンチのような存在は、完全に「構造」的弱者だと言えるでしょう。そしてそのアンチの、アンチとしての発言は“ちゃぶ台返し”であり、即ち「構造」の破壊だという事になります。


では、その“「構造」の破壊”という現象をもってして、「明日のナージャ」という「表現」は「構造的暴力」であり、そして「悪」である…となるのでしょうか?








…いや、ちょっと待てよと。「明日のナージャ」の世界とは違って、「声優さんのケース」においては、声優さん自身が(広義の)ファン・ユーザー・その他からの「ある表現」を受けているじゃないか、と。


その指摘は当然です。しかし逆に言えば、「表現」と「当人(「構造」的弱者)」の関係においての違いは、そこにしかありません。つまり、「コミュニケーション」の有無の違いです。「構造」の違いは存在しません。








だからこそ今回の件について、「ある表現」の抑制は(その声優さんをめぐる)「コミュニケーションのお話だ」「コミュニケーション問題でしかない」と、そうブックマークコメントで述べてきているのです。




それでもまだ頑なに「構造」の問題だと言い張り、例えば前述の“「明日のナージャ」の世界”における「明日のナージャ」を「構造的暴力」=「悪」として焼き尽くすような、そんな世の中を望みますか?