むっちむち。

http://mgribbon.tumblr.com/post/30992499070

「クズの誹りを免れない」、もう少し日常語で言えば「クズって言われてもしょーがないよねー」と言ったのであって、貴方が真にクズであるかはむしろ留保しているのです。分かりにくかったみたいですが。

こちらの誤読であったことは理解しましたが。あ、はい、そうですか、としか。


『「クズ」って言葉を他人に向けるのはヒドイけど、「クズって言われてもしょーがないよねー」って言葉を他人に向けるのがヒドくない』みたいな感覚は、ちょっと僕には分からないので。


あぁ、別にいいんですよ。感覚の問題ですから。声優さんに「絶対に許せない」ってコメントする人達に憤りながら、他人を「クズ」呼ばわりしてみたり、他人に「クズって言われてもしょーがないよねー」とか言ってみたりする方々の感覚が理解できません、ってだけの話です。はい。








さて、

ポジションがどうであるかは事柄の是非を決定付けませんよ

とありますが、これは少なくとも広く賛同が得られる意見ではないと思います。


そういう原理主義的な立場がありうることは分かりますが、普通はその人の(広義の)社会的地位・ロールによって政治的に正しい振る舞いかどうかは変わってくる、と考えるべきでしょう。

「ポジションがどうであるかは事柄の是非を決定付けない」というのは単なる事実であって、賛同を得られる得られないの問題ではありません。今、ここに書かれている文章が仮に、BOTによるものであろうと、猫パンチによるものであろうと、その文章の是非や正否については全く関係がありません。


また「原理主義的」というのも、MagnesiumRibbonさんの独自解釈すぎて謎概念です。



そして、さらっと仰られていますが、(ある事柄(表現)に対して)「政治的に正しい」という基準を持ち出されてきている事こそが、表現規制を促す思考と近似の理路であり、この件において最も危惧すべきお話のひとつです。



私がメタブで述べたように、舞台の上に立つものと舞台の下に立つものの間のコミュニケーションは完全に非対称であり、それはいわゆる「ふつう」のコミュニケーションとは異質なものです。

こちらが既に“ライブでのサイリウムはOKか?的な、舞台上下のコミュニケーション問題”と述べているにも関わらず、今更くる反論(?)が「非対称だから」というのには、脱力感しか湧いてきませんが、まぁ。1対1のライブを想定してる…とか思われてるんでしょうか。謎です。



それと、「ふつう」というのも謎概念ですね*1。最低でも、こちらから持ち出した概念ではありません。
また、それに関連して

店員と客が「対等に」コミュニケーションできる、とは主張されませんよね?

MagnesiumRibbonさんの仰る「対等に」とはなんなのでしょうか。というかそもそも、『固定的な「対等」という状態』が存在しているとでもお考えなのでしょうか。やはり謎です。*2



舞台の上に居る以上、演者は個々のリアクションに個別に切り返すことはしない、できないことになっているので、ここには構造的な暴力が発生する余地があるわけです。

MagnesiumRibbonさんはこれ以後、「構造」という単語を連呼されるわけですが、「構造」という概念を持ち出して「表現」を否定しようとする思考も、これまた表現規制を促す思考と近似の理路であり、この件において最も危惧すべきお話のふたつめです。



これは既に過去の記事で述べていることですが、『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非や正否を決定付けません。もし決定付けると仰るのでしたら、それはもはやオカルト現象か何かだとしか言いようがないです。





社会的地位を用いた一方的な構造的暴力はいかなるタイプのモノも悪である

これなんて、発想がもう恐怖・オブ・恐怖すぎる。いや、まじで。すごい。*3


前述の通り、『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非や正否を決定付けませんから、「構造」がどのような形態であるかは、「表現」を「悪」と決定付ける要因になりませんし、なるべきでもありません。






また、比喩表現としての「暴力」、特にそれを「表現」の類にあてはめる場合、それは往々にして「魔法の呪文」*4と化す事を理解してください。そしてこれも、表現規制を促す思考と近似の理路であり、やはりこの件において最も危惧すべきお話のみっつめです。



つまり結局のところ、意識してなのか無意識でなのかは存じ上げませんが、MagnesiumRibbonさんは“「表現」の問題ではない”と仰りながら、“「表現」の問題”と近似の理路を披露してしてしまっている、という事になります。
それも、表現規制を促す理路に近似の、残念な思考の開陳という形で、です。






構造的な暴力と密接に結びついた言葉については、その表現自体を吊るし上げることもやむなし、というのは妥協策としては昔から行われていたことです。


すなわち、「差別語」の「言葉狩り」です。

えーっと。これはまさかの「言葉狩り」肯定??いや、堂々とそんなこと仰る方が現れるとか。ほんとに?え?ちょっとわかんないです…。




というわけで、MagnesiumRibbonさんの記事を眺めても、危うい思考の羅列を拝見できただけで、そのどこに他人を「無知」扱いできる程の「知」があったのかは、最後までよく理解できませんでしたね。









ところで、人数の非対称性を指摘しながらの

広く賛同が得られる意見ではないと思います。

たぶん多くの人が賛同するように

メジャーな倫理観

発言は、ギャグか何かなんだろうか。
あーもしかして、その「メジャーな倫理観」とやらこそが最強の「暴力」であり、最大の「悪」なんだよ!!!!!!11っていうお話だったのでしょうか。なるほどー。

*1:別に、日常的な処世レイヤー上においてそういう概念を用いるなという話でも、理解できないという話でもありません。ただ一方で、理屈のレイヤー上において、その概念は謎であると述べざるを得ません。

*2:つーか、店員の直接の交渉相手は雇用者側なので、何か根本的な部分から勘違いしてそうですけど。

*3:というかむしろ、こういうのこそ「原理主義的」と称するべきではないですか、と。

*4:「魔法の呪文」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/rag_en/20110803/p1の“個人的には〜と考えます。”の段落に。ここでは「差別」について述べてますが、比喩表現としての「暴力」もほぼ同じ話です。