魔法の呪文、つづき。

http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome#c1312377663



まず謝罪しておかなければならないのですが、せっかくweb拍手の方に投稿して頂いたにも関わらず、こちらがweb拍手をしばらく活用していなかったためパスワードを忘れてしまった、というか使用していたメールアドレスすら分からないなんていうアレでして…申し訳ないです。



前回の件、今回の件ときてようやく違和感を覚えたのですが、「差別」というレッテルに対する忌避感がものすごくあるのかな、と思った次第です。まるで「差別者である」と指摘されたが最後、生きていけないというような。つまり「悪」属性ですね。


ただ現状「"嫁"という差別語を使ったな! 差別主義者め!」と言われたからといって、社会的に抹殺されることもないでしょうし、そこまでかなあと僕などは思ってしまうのです。

生きていけるかどうかは処世レイヤー上の問題ですし、そこに問題がないとは言いませんが、この場合では問題にしていません。



繰り返しになりますが、『「事柄」は「差別」だから「悪」』とするような用法での「差別」については、今後も「魔法の呪文」として扱わざるを得ませんというお話なので。レッテルに対する忌避感というよりはむしろ、「差別」だと呼称する行為がレッテルを貼る行為として機能している事について、と言った方がこちらの述べたことには近いです。


つまりこの場においては、『「事柄」は「差別」だ』と言う行為そのものを問題にしているわけではありません。ですが、ただ『「事柄」は「差別」だ』と述べただけで、それが(「事柄」の是非や正否とは別レイヤーであるにも関わらず)「事柄」に対する否定として機能してしまうというのであれば、その現象を指して「魔法」と呼んでいる、みたいな話だと理解していただければありがたいです。


もちろん、「魔法の呪文」を詠唱する自由も可能な限りあるべきだと考えますが、ただそれを詠唱したところで「事柄」に対する理屈の通った批判とはなりませんよね、という事は共通認識として前提にして頂けたらよいのではないかなと、自分はそう思います。





未来に「弱者」という存在がいなくなり、誰もが対等に渡り合える時代が来れば表現の規制とか、そうしたことも顧慮しなくてよくなるのではないかと。

「表現」に「差別」が絡んできた場合、たまにこういう意見を見かけるのですが、これについては同意できません。


似たようなコメントを数回はてブで述べたことがありますけれど、『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の正否を決定付けません。もし決定付けると仰るのでしたら、それはもはやオカルト現象か何かだとしか言いようがないです。