魔法の呪文。

http://d.hatena.ne.jp/islecape/20110801/yome



以前、islecapeさんの記事http://d.hatena.ne.jp/islecape/20100719/p1に対して、自分が

また魔法の呪文「差別」ですかー。違いますかー。

と(はてブで)コメントした際、islecapeさんから「違います」と(☆コメで)レスを頂いた事があるのですけれど、今回の記事においてislecapeさんが仰る

「そう指摘しようという人からすれば、なにをしても差別と言われるのではないか」という人もいると思いますが、それはまったく本当にその通りで、「どうしても差別をしたくない、差別していることを指摘されたくない」というのであれば、もう死ぬしかないのではないかと思います

「差別的・特権的」と言われることを恥じるのではなく、他ならぬ自分自身が「差別的・特権的であることから目をそむけ、耳をふさぐこと」を恥じるべきです。

辺りから判断する限り、最低でも『そう呼称された「事柄」は、そう呼称された時点で非難されるべきものとなる』程度には、「差別」という言葉は魔法の呪文として使用されていますよね。魔法の呪文であると認識されてるかどうかは分かりませんが。




個人的には何度か色んなところで(といっても主にブコメなんかで)『魔法の呪文「差別」』とコメントしてきてたりしますが、「事柄」そのものの是非や正否とは別レイヤーであるにも関わらず、「事柄」を「差別」と呼称する事で、『「事柄」は「差別」だから「悪」』とするような用法での「差別」については、『それを詠唱することで、対象となる「事柄」に「悪」という属性を付与できる』という意味で、今後も「魔法の呪文」として扱わざるを得ませんよ、と考えます。*1






ついでに書いておくと、以前の方のislecapeさんの記事について、ブクマ塔*2上で

もし「この世には責められるべき表現(とそうでない表現)がある」と分類するならば、思考が残念すぎる。

というコメントをさせて頂いた事があるのですけれど、今回のislecapeさんの記事が想定する『“この書籍には現代となっては不適切な語句・表現が見られます”と注釈されるような未来』は、やはりその残念な思考による分類を前提にしたものなんじゃないのかな?と、そう読めるのです。自分には。こちらの誤読でしたら申し訳ありませんが。




“もし万が一、「中国嫁日記」が実は後世からすれば(我々には知る由もない)とんでもない差別性を帯びた作品であって、これを鑑賞できるということは鑑賞者の差別性の暴露に他ならなかい、とかいうようなことになったとし”*3て、円環の理から自分たちが反省するのであれば、むしろ「“この書籍には現代となっては不適切な語句・表現が見られます”と注釈されるような、そんなせせこましい未来を渡して正直スマンカッタ」って事なんじゃないですかね、と。


自分は、価値観の自由競争による淘汰を否定しませんが、ただ『“この書籍には現代となっては不適切な語句・表現が見られます”と注釈されるような未来』よりは、『過去においては不適切な語句・表現でしたが、現代ではそんなのガン無視して書いちゃうよ☆みたいな未来』の方が少し幸せなんじゃないかなー…と、個人的にはそう思います。

*1:ここでいう「悪」ってのは、たとえば是非の「非」だったり、正否の「否」だったり、だいたいそんな感じ。

*2:別に言わなくてもいいだろうけど、メタブの事です。ってメタブで分かるなら注釈いらないか。

*3:原文コピペ。