「表現の自由」について共通認識にしておいてほしい事。

「長文読むの面倒くせぇよ!」って人は、次の6つだけでも覚えて帰ってくれると嬉しいです。そんな難しい話ではないです。難しい話なんてできませんしね。「今更こんなん言われんでもわかっとるわ!当たり前やろ!」って人はごめんなさい。

  1. 表現の自由」で最も重要なのは『価値観の自由競争(市場)』。『公権力からの自由』はあくまでその手段の一つ(もちろん重要だが)。『表現の自由度』はその結果。

  2. 「表現」が「自由市場」への参加を否定されていないという前提において、その「表現」の「シェア」の伸ばしやすさは問題にならない。また、既存の「シェア」の大きさの差も問題にならない。

  3. 「表現」はその「思想」をもって、世の中にどの様な「影響」を与えてもよい。当然、『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非を決定付けない。

  4. 「表現」は、『価値観の自由競争(市場)』における競合によるものであるならば、その意図の有無に関わらず、人を傷つけてもよい(人に不快感を与えてもよい)。

  5. 概念・カテゴリー・属性等は決して誰かの占有物ではなく、「表現」におけるその使用に関して「当事者」が優先されるわけでもない。フリー素材。

  6. 「表現」は、具体的な「個別の私」からのみ制約を受ける。



ネット上で度々起こる「表現(の自由)」に関する喧々諤々*1は、おおよそ上記の事さえ踏まえていれば収まるのではないかと思います。逆に言うと、これらのうちの幾つか、もしくは全てに反している主張をしてしまう事こそが問題なのです。


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まず1について。これはつまり、『絶対に「正しい」とされる、そんな「思想」は存在しない。だからこそ、「思想」の媒体たる「表現」は常に「自由競争」の下にあらねばならない。』事こそが、「表現の自由」の根幹である、という話です。


また、「市場」の中で自身の「効用」を最大化する事は、個々の主体が持つ権利であるべきだから、という考えに基づくものでもあります。


ですから、もし1を否定しようとするならば、『全人類がそれぞれの権利を放棄してでもコミットすべき、絶対に「正しい」とされる「思想」が存在する』と主張し、証明しなければなりません。完全に狂気であり、全知全能の神の召喚でも試みた方が早いレベルではないかと思います。



ところで、「思想の自由市場」という言葉もあるのですが、それを用いないのは、「先達のxx先生が仰っていた(から、この主張は正しい)」といった論の立て方を、あまり望まないからです(別に参考にしないとは言っていない)。


もう一つは「思想の自由市場」という言葉にはどうも「真理への到達」とでも言えばいいのか、ちょっと意識高めのニュアンスがあるらしく、もちろんそれを含める事自体は構わないのですが、一方で例えば娯楽分野に関しては各々の「効用」の最大化こそが目的であり、「思想の自由市場」よりも広くカバーできる言葉が必要だった、という事です。






次に2について。法規制やその他の妨害によって、「自由市場」への参加、つまり「シェア」を伸ばそうとする表現行為自体が否定されていない事こそが肝要であり、実際の「表現」する際の難度(参入障壁)や「シェア」の伸ばしやすさは問わず、また仮に競合相手が強すぎて「シェア」が伸ばせないとしても、「市場」としてはそれは何の問題もありませんよ、という話です。


『競合相手が強すぎて「表現」しづらい風潮がある、「表現」してもウケない…等の理由から対抗が困難なので、競合相手を規制、もしくは抑制すべし』という考え方は、それが公権力による規制にせよ、それ以外の方法にせよ、明らかに「計画市場」であり、「自由市場」に反します。






次に3について。これは、『「表現」は「思想」の媒体であり、媒体による「影響」を肯定してこそ「思想の自由」が成り立つ』からです。人間にとって多くの「思想」は、プリキュアの掛け声の様なプリインストール型では無いのです。


また例えば「悪影響を与えてもよいのか!」といった反論が予想されますが、そもそも『「とある表現」には悪影響がある』みたいな考え方の時点で、思考が捻転しています。それを「悪」と設定するのも、結局は「別のとある思想」以上のものではなく、であればせめて『私(たち)にとって都合が悪い影響がある』と素直に言うべきです。






次に4について。『誰も傷付けないような「表現」は難しく、そうなってしまうのは避けがたい、仕方がない事だ』といった感じで捉えている人もいるでしょうが、それがまず間違っています。


「傷付く」「不快感」というのはつまり、「自身の価値観に反する価値観」との「競合」によるものであり、むしろ正当な「自由競争」の結果でしかないのですが、それをあたかも「外部不経済」によるものと勘違いしてしまっているのです。


もちろん、漫画・アニメ・ゲーム等は基本的にはあくまで娯楽であり、制作者にしろ消費者にしろ、他者の「思想・価値観」をディスる事を目的としたモノは、それほど主流ではないのだと思います。だからこそ(「オタク」の側でさえ)、娯楽が生み出される中で発生した「外部不経済」の様に誤解して捉えてしまうのだろう、と。


しかし実際は、例えば『私にとって、「オタク」系イラストは不快だ!傷付いた!』は、『私の持つ価値観と、「オタク」的価値観とが競合しています』の意味であり、それ以上でも以下でもありません。「市場」として極々正常な状態です。その傷付いた「思想・価値観」が、どれだけ当人のアイデンティティの様なものと深く結びついていたとしても、です。






5については、そのまんま。純然たる事実です。


もし否定するのであれば『概念・カテゴリー・属性等は誰かの占有物である』事か、『概念・カテゴリー・属性等は決して誰かの占有物ではないが、「表現」におけるその使用に関しては「当事者」が優先される』事を証明する必要があります。無理です。


一応述べておきますが、『あたかも“優先”が存在しているかの様なケース』を挙げるのは残念ながら証明にはなりません。逆です。それはそのケースが、5に反して間違っているだけの話です(そして恐らく1~4・6に反している可能性も高いのでしょう)。






6については、『「集合」は権利を持ちませんし、持つべきでもありません』で終了です。また、ここで言う「私」とは、私的所有という言葉の「私」とほぼ同じ意味だと考えてください(一応読みは「こべつのし」のつもりです)。


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以下、おまけ。


「表現の不自由展」の騒動を経て、「Social Justice*2」界隈もこれまでの事を反省してくれるのではないか…と期待した直後に「いつも通り」の件が起きたという事で、正直そこそこ落胆しています。


そして何よりしんどいのは、これまで散々理屈で追い詰められたせいでなりふり構っていられなくなったのか、それとも界隈の内側での「運動」が過熱してハイになっているだけなのか、それは定かではありませんが、相当に危うい主張を堂々とする様になってきた、という事です。




「Social Justice」はついに、『女性の「表象」』の『「価値観の自由競争(市場)」における需給関係』を明確に否定しました。




もちろん以前からそのきらいは十分あったのだと思います。また、『エロの判定が過度にセンシティブで、エロ排斥的な頭の固い奴』扱いされないために苦し紛れで持ち出して来た、という側面もあるのかもしれません。


それでも彼らが、とうとう「表象」(つまり上記で言うところの、概念・カテゴリー・属性等のフリー素材)の「自由」を否定する言説を、これ程までに臆面もなく行う様になったという事はつまり、それはもう完全に「表現の自由」と敵対するという宣言に他ならない訳です。その自覚があるのか無いのかに関わらず、です。
既に、「議論の相手として見る」フェイズは過ぎ去ったのかもしれません。



彼らは今、間違いを犯す事でしか自身らの掲げる「正義」を叶える事ができない…という状況にあるのでしょう。最早、「正解」を共有する事は不可能に近いとさえ考えざるを得ません。


『奴等の分かり易いバカさ』をピックアップしてくるのも結構な事だと思います。それはそれで、一つのやり方でしょう。しかし一方で今、重要なのは、もう一度ちゃんと「表現の自由」を理解し直し、それに反する「Social Justice」の危うさ、「思想・表現の社会主義」的志向を認識し、正確に危機感を高め、批判・否定する事なのではないだろうか…と、自分はそう考えます。

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