そもそも責任なんて概念あんま信じちゃいないんですけどね。

便宜上、そういう単語を使うことがないとは言いませんが。


http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20090822/1250874891

成功と失敗、および原因の所在が自分か他人か、これを組み合わせると4つの立場ができます。

  1. 成功は他人のおかげ、失敗は自分のせい
  2. 成功は自分のおかげ、失敗も自分のせい
  3. 成功は他人のおかげ、失敗も他人のせい
  4. 成功は自分のおかげ、失敗は他人のせい

ぼくの感覚からすると、いちばん美しいと感じるのは、1です。いちばんそう感じないのは4です(2と3は、どちらがいいのかよくわかりません)。でも、4は、いまの世間にうっすらと蔓延している思想をあえて言葉にしてみたもの、ですよね。


ぼく自身の立場は2かなと思います。みなさんのおかげです、とか、そんなに謙虚にはなれない(ただ口ではそう言うと思います)。しかし、失敗を他人のせいにしたりは、したくないですね。それは美意識に反します。失敗は自己責任、と、ぼくは考えます。もし仮に、小説でも映画でも漫画でもいいですけど、1な男と、4な男がいたら、ヒロインはどちらを選ぶと思いますか? そんなの、自明、ではないですか? これはそういう話なんですよ。

でも、「成功は他人のおかげよ!でも失敗はあなたのせいよ!」なんてのたまうヒロインってかなり微妙だと思うのですよー。もちろん、この要素に限った話という前提ですが、それこそ限りなく自明に近くないですか?*1
こういう事を書くとまた、ヲタ叩きが大好きなのかなんなのかよく分からない人たちが妙な萌え定義を掲げたうえで、「ヲタは自己都合のよい萌えウンタラカンタラを〜」みたいなこと仰られるのかもしれませんけど、その手の意見はおおよそマヌケだと思ってるので、まぁ。


それと、今の世間に蔓延してるのはむしろ1か2だと思う。僕の肌感覚では。




また、「自分」と「他人」って対比もあまりよくない気がします。
「他人」って個人じゃないですから。個人+個人+個人+個人+…ですらなくて。なんていうか、もっとワケのわからない塊みたいな。いや、そういうのを世間一般では社会とか呼ぶんだと思いますけれども。


「他人」が自分と対比できるような存在なら、フキョーとかそういう事はもっと起こらないんじゃないかなーと。

ただ、もう、生きていくのでギリギリであるとか、心身共に崩壊寸前であるとかの人が、一時的に、自分のことを防御するために、この失敗は他人のせいである、とするのは、別に構わないと思います。けれどその窮地を脱したら、いままでの状況は自分が招いたことだとして、振り返り反省したほうがいいのではないでしょうか。そしてそれほどの危機的状況にも至ってない人が他人のせいにしているのを見ると、なんだかなぁ、とぼくは感じます。

僕の感覚は全く逆で、ものすごく究極的には「自分は何もしていないけれど全てを手に入れてる」ってのが、そしてそういう人が一番ステキだと思ってるのですよ。そして、そういう人に憧れるし、憧れたい。更に言えば、みんなにも憧れて欲しいと、少しそういう風に思ってたりもする。

日本人のほとんどを占める「ふつうの人」が、ふつうに送る一生で良しとできないんだったら、最初に設定した基準の方になにか問題があるんじゃないのかなー、とぼくは思います。

自己責任論なんてあんまちゃんと読んだ事ないからよく知らないんですけど、いわゆる「自己責任!」を声高に叫ぶ人たちってのは、その「基準」だとか「社会」だとかの問題を、個人の問題に転嫁して矮小化しちゃうような人たちなんじゃないんですかね。やっかいなセカイ系とでもいえばいいのか。んー。




それともこの現実が空想以下である、所詮空想にすら及ばぬつまらないものである、ことを認め受け入れて生きていくんでしょうか?

ちょっと話はズレるんですけれども、いいかげん「現実⇔虚構」みたいなのはどうなんだろうなぁと常々。これはブックマークコメントでも数回書いてるんですけど、そろそろいつも「現実」とか呼ばれてるものにもタイトルをつけるべきだと思う。
お前はディケイドに感化されすぎだとか言われると、そうかもしれないスねとしか言えないんですが。そして次回ついに最終回です。まとまるか不安です。でも楽しみにしてます。

*1:いや、そういうの大好きなドMさんとかもいらっしゃるか。